こんにちは、ぶぶこです。
ますます高齢化社会がすすみ、この記事を読んでおられる方も80~90歳の親がいるという状況も多いのではないでしょうか。
お元気でいてくれることがいちばん嬉しいしありがたいことではありますが、いつかは必ずお別れがやってきます。
私も10数年前に父の介護~死に携わり、本当にいろいろと悩まされました。
今回は同じような環境にいる方への記事となります。
- 重度の病を抱えた親がいる
- 親とは同居していない
- 頑固な親で困っている
- 透析患者の親とどう向き合えばいいか悩んでいる
上記のことが身近に起こっている
あるいは起こりうるかもしれない
という方には何らかのヒントになるかもしれない現実的な内容となっています。
これは腎臓病を発症~死亡という現実において、私たち親子が悩みながらも選んだ結果であり推奨するものではありません。
万が一、内容にご気分をを悪くされるようなことがある場合は悪しからずご容赦ください。
初めて生死の境をさ迷った父

20〇〇年6月
父は救命救急室で一命を取り留めた。
腎臓の90%が機能していないことが原因と告げられた(腎不全)。
病院の手厚い看護のおかげで、一か月の入院で退院することができた。
このときはまだ、飲み薬と食事療法で様子を見ようということに。
問題は食事だった。
独り暮らしの父に管理させるのは難しいものだった。
タンパク質と塩分の量を考えて摂る。
なんて、昭和17年生まれの頑固おやじにできるわけもなく・・・
むしろ何にでも塩か醤油かけて食べる世代。
仕方なく、腎臓を患っていても食べられる食事のある宅配業者に依頼をした。
この時、最近の宅配が進化しているので本当にありがたいと思った。

もうろうとしている父を病院へ

20〇〇年9月
一か月ぶりくらいに実家に戻った。
家に上がると、椅子にもたれかかって宙を見るようにぼーっとしていた。
話しかけても、
んん…あぁ…あ・・・ぅ…
明らかにおかしい。
滑舌も悪いし目の焦点も合ってない。
意識がもうろうとしている。
お父さん、すぐに病院行こう!
連れて行くから!!
すぐに病院に連れて行き検査をしてもらうと、危うく倒れる寸前だった。
そのまま即入院となり透析を受けざるを得なくなった。
人口透析
- 腎臓のかわりに体内に溜まった老廃物毒素、余分な水分をろ過する治療
- 一般的には1回4時間/週3ペース
- 透析をしない場合は尿毒症で命を落としてしまう
その日、入院の着替えを取りに行くために私は実家に戻った。
台所のテーブルに薬の束を発見!

ええっ!?ほとんど飲んでないじゃない!!
そりゃ悪化するに決まってる。
ちゃんと飲んでるなんて、電話で私に嘘をついていた。
薬を飲むことが面倒くさかったのだ。
透析が欠かせない身体に
20〇〇年11月
透析確定となった父。
必要と言われてから2か月くらいは真面目に通っていた。
だけど、もともとが自由奔放な性格。
透析に縛られることがよほど苦痛になったのか、日に日に通わなくなっていった。

3日に一回になり、1週間に一回になり、2週間に一回になり…
自分勝手にどんどん間隔を空けていく。
20〇〇年12月
担当の医師は送迎の提案や説得など本当に手を尽くしてくれた。
ケアマネジャーさんも足しげく通ってくれ、幾度も父を説得をしてくれた。
そんなケアマネジャーさんをよほど鬱陶しく思ったのか
はたまたただの錯乱状態なのか
てめぇ!このやろー!
帰れえぇぇぇ!!
右手にキンチョール
左手にハエたたき
ものすごい形相で追い返した父。
どんな戦闘態勢だよ・・・
あまりの失礼さに、私は深く深く頭を下げてお詫びした。
そして父に、
私が連れて行くから行こうよ!死んじゃうよ!?
しかし、テコでも動こうとしなかった。
縄でも巻いて連れて行こうかと本気で考えた。
が、それはあまりにも無謀なので諦めた。
その日、娘の私が何度も透析に行こうと促しても逆ギレされてどうしようもなかった。
心配が尽きない。
けど、私も仕事と家庭があるので自宅に帰らなくては。
お父さん、じゃあまた来週来るね。
気が向いたらでもいいから透析に行ってね。
気が向いたら…とかいうようなものでは本来ないけど。
私にできることはお願いしかなかった。
冷静になればきっと行ってくれるよね…
淡い期待のもとにその日は帰宅した。
透析を嫌がる父と困惑する私

20〇〇年1月
その後、透析には週に一度くらいのペースで通っていた。
完全に気まぐれで行っていたようなものだった。
相変わらず医師や私の言う事なんて全く聞かない。
これほどハチャメチャな透析の受け方なのに生きている…
こんな体質の人は稀だと医師に驚かれた。
そんなもんな!行かなくたって大丈夫なんだよ!!
大丈夫なわけがない。
だいぶ痩せた父。
まともにご飯も食べてないのだろう。
でも相変わらず病院に行こうとすらしない。
こうなってくると、
病院に連れて行くことが父にとって良いことなのか とか
でも連れて行かない娘ってどうなんだ とか
私の頭の中はこんがらがってしまっていた。
私にできることは一体なんなんだろう・・・
ものすごく悩んだ。
もう自宅から外出する体力も気力もなくなっていた父。
毎週休みの度に食料を一週間分買って届けるようにした。
おぅ…ありがとうな・・・
穏やかにお礼を言ってくれた。
その頃はもう、2口3口かじったら食べられないくらいになっていた。
たぶん来週もほとんど残してるだろう。
食べ残しの始末もしてあげなきゃいけない…
とある日には。
台所のドアを開けたら、床にゴミと丸まったティッシュが山のように散乱していた。
ゴミ箱にゴミを捨てるという普通の感覚がもう無くなっていた。
実家が…
どんどん実家じゃなくなっていく…
あのときの胸の痛みは今も忘れられない。
あまりの悲しさ私はに手紙を書き置きした。

お父さんへ
親しんだ実家がゴミだらけになるのは娘としてとても悲しいです。
捨てやすいように大きい段ボールを用意したので、ここに捨ててください。
ぶぶこ
大きな段ボールなら。
ゴミ箱まで歩いて行かなくても捨てられると思ったから。
ベットで眠っていた父には手紙のことは何も言わず、また来週来るとだけ告げた。
そうしてその日は実家を後にした。
独りで決めて旅立った父

20〇〇年3月末
ここ数日、夜中でも電気が点いたままだだけど大丈夫?
親戚から電話が入った。
実家の電気がずっと点けっぱなしだという。
父に電話をしても出ない。
その日は何件がお客様の予約を入っていたので、仕事が終わってから実家へ向かった。
鍵のかかってない実家のドアを開けると台所に父が横たわっていた。
「お父さん!」
呼んでも何の反応もない。
否が応でもすべてを理解した。


苦しいとか
辛いとか
助けてとか
一度も連絡してこなかった父。
携帯はずっとそばにあったのに。
頑固で娘の言う事を全く聞かない父親だったけど
嫁に行った娘には迷惑をかけたくない
その一心も揺らぐことなく最後まで頑固だった。

その日の床は
とてもきれいで。
ゴミは全て段ボールの中に入れてあった。
私に悪いと思いながら引きずるような辛い身体で
ゴミを捨ててくれていた。
最後に
娘としてできることは何もなかった
というのが結論でした。
ふたりの立場がちがうから
「生きること」の意味がそもそもちがう
ことを知らされました。
そして、
- 病とどう向き合うかは本人に選択する権利がある
- 子供に迷惑をかけない生き方をする
ということを心に刻みました。
この先ますます高齢化社会が進むにつれて
目を背けてはいられない現実だと実感しました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

